好きなアーティストさんから、まったり日常まで。
あなたの心の隙間をお埋めし・・・(違)
Dancing The Dream -dancing the dreamより
WING WITHOUT ME~ぼくにない翼~
八月、ぼくは空を見上げていた。両手を額にかざすと、一羽のハヤブサが熱風の渦巻く大空へ舞い上がるのが見えた。高く高く、ハヤブサは弧を描きながら舞い上がり、やがて鋭い鳴き声を残して空の彼方へ消えていってしまった。
ぼくはふいに、とり残されたような空しさを感じた。
「おまえはどうして、ぼくを置き去りにして飛んでゆくの?」とぼくは低くうめいた。するとぼくの魂が答えた。
「ハヤブサの生きかただけがすべてじゃない。おまえの心は、どんな鳥にも負けないくらい自由だ。」と。
目を閉じると、ぼくの魂は肉体を離れ、ハヤブサと同じくらい空高く弧を描いて舞いあがった。やがて魂はハヤブサを越え、気がつくとぼくは地球を見下ろしていた。
けれどやはり、何かが違う。この冷たさは、この寂しさはいったい何だ?
「ぼくを置き去りにして、おまえは飛んでいった」とぼくの心が言う。
「愛のない自由なんて、いったい何の意味がある?」
ぼくはすぐさま、病気で寝ている子供のベッドに駆け寄り、子守歌を歌ってあげた。子供は微笑みながら眠りに落ち、するとぼくの心は肉体を離れ、ぼくの魂と一体になって地球の上を回りはじめた。
ぼくは自由で愛に満ちあふれていたが、それでもやはり何かが違っていた。
「ぼくを置き去りにして、おまえは飛んでいった」とぼくの肉体が言う。「おまえはただ、空想で飛んでいるだけさ。」
そこでぼくは、それまで見向きもしなかった本をかたっぱしから調べ、ほんとうに空を飛んだ聖人の話を読んだ。インドで、ペルシャで、中国で、スペインで(それになんとロサンゼルスでも!)、魂の力が心だけでなく肉体の細胞ひとつひとつまで届いた例がみつかった。
「あたかも巨大なワシに持ちあげられたかのように、無我の感覚によってわたしの体は宙に浮かび上がった」と、聖テレジアは語っている。
ぼくはこの驚くべき神業を信じるようになり、ようやく深い孤独感から解放された。ぼくはハヤブサになり、子供になり、聖人になった。ぼくの目には彼らの生命がひどく神聖なものに映り、真実が見えてきた。
すべての生命が聖なるものに見えたとき、人は誰でも翼をもつのだ、と。
INNOCENCE~無邪気さ~
無邪気さは単純さ、あるいは繊細さと勘違いされることがよくある。
僕等はみな教養があり、賢明な人間に見せたがっている。
無邪気さとは、それらとは「正反対」のものだ。
だが、無邪気さの奥には、深い真実がひそんでいる。赤ん坊が母親の瞳の中に見ているものはただひとつ、愛だけだ。無邪気さが消えると、もっと複雑な事柄がそれにとって代わる。
ぼくらは人間を出しぬき、自分の欲しいものを手に入れることしか考えていない。
ありあまるほどのエネルギーを、わが身を守ることに費やしている。そして、人生は戦いの場となりはてる。人々はいやおうなく、賢明にならざるを得なくなる。
それ以外に、どうすれば生き残ることができるというのだ?
つきつめれば、生き残るというのは、物事の本質を見きわめそれに対応することだ。心の扉を開けることだ。そして、無邪気さとは、まさにそれなのだ。批判的な目で物事を見たり、たった一つの狭い視点にこだわるのではなく、子供のように田だひたすらに信じることだ。
ひとつの考え方にしばられ、それにしたがって行動していると、創造力はそこで止まってしまう。
そしてあなたは、新鮮さや瞬間のひらめきといったものを、取り逃がしてしまうだろう。
もう一度無邪気な心を取り戻してみよう。そうすれば、心はいつも新鮮さに満ちあふれているはずだから。
WING WITHOUT ME~ぼくにない翼~
八月、ぼくは空を見上げていた。両手を額にかざすと、一羽のハヤブサが熱風の渦巻く大空へ舞い上がるのが見えた。高く高く、ハヤブサは弧を描きながら舞い上がり、やがて鋭い鳴き声を残して空の彼方へ消えていってしまった。
ぼくはふいに、とり残されたような空しさを感じた。
「おまえはどうして、ぼくを置き去りにして飛んでゆくの?」とぼくは低くうめいた。するとぼくの魂が答えた。
「ハヤブサの生きかただけがすべてじゃない。おまえの心は、どんな鳥にも負けないくらい自由だ。」と。
目を閉じると、ぼくの魂は肉体を離れ、ハヤブサと同じくらい空高く弧を描いて舞いあがった。やがて魂はハヤブサを越え、気がつくとぼくは地球を見下ろしていた。
けれどやはり、何かが違う。この冷たさは、この寂しさはいったい何だ?
「ぼくを置き去りにして、おまえは飛んでいった」とぼくの心が言う。
「愛のない自由なんて、いったい何の意味がある?」
ぼくはすぐさま、病気で寝ている子供のベッドに駆け寄り、子守歌を歌ってあげた。子供は微笑みながら眠りに落ち、するとぼくの心は肉体を離れ、ぼくの魂と一体になって地球の上を回りはじめた。
ぼくは自由で愛に満ちあふれていたが、それでもやはり何かが違っていた。
「ぼくを置き去りにして、おまえは飛んでいった」とぼくの肉体が言う。「おまえはただ、空想で飛んでいるだけさ。」
そこでぼくは、それまで見向きもしなかった本をかたっぱしから調べ、ほんとうに空を飛んだ聖人の話を読んだ。インドで、ペルシャで、中国で、スペインで(それになんとロサンゼルスでも!)、魂の力が心だけでなく肉体の細胞ひとつひとつまで届いた例がみつかった。
「あたかも巨大なワシに持ちあげられたかのように、無我の感覚によってわたしの体は宙に浮かび上がった」と、聖テレジアは語っている。
ぼくはこの驚くべき神業を信じるようになり、ようやく深い孤独感から解放された。ぼくはハヤブサになり、子供になり、聖人になった。ぼくの目には彼らの生命がひどく神聖なものに映り、真実が見えてきた。
すべての生命が聖なるものに見えたとき、人は誰でも翼をもつのだ、と。
INNOCENCE~無邪気さ~
無邪気さは単純さ、あるいは繊細さと勘違いされることがよくある。
僕等はみな教養があり、賢明な人間に見せたがっている。
無邪気さとは、それらとは「正反対」のものだ。
だが、無邪気さの奥には、深い真実がひそんでいる。赤ん坊が母親の瞳の中に見ているものはただひとつ、愛だけだ。無邪気さが消えると、もっと複雑な事柄がそれにとって代わる。
ぼくらは人間を出しぬき、自分の欲しいものを手に入れることしか考えていない。
ありあまるほどのエネルギーを、わが身を守ることに費やしている。そして、人生は戦いの場となりはてる。人々はいやおうなく、賢明にならざるを得なくなる。
それ以外に、どうすれば生き残ることができるというのだ?
つきつめれば、生き残るというのは、物事の本質を見きわめそれに対応することだ。心の扉を開けることだ。そして、無邪気さとは、まさにそれなのだ。批判的な目で物事を見たり、たった一つの狭い視点にこだわるのではなく、子供のように田だひたすらに信じることだ。
ひとつの考え方にしばられ、それにしたがって行動していると、創造力はそこで止まってしまう。
そしてあなたは、新鮮さや瞬間のひらめきといったものを、取り逃がしてしまうだろう。
もう一度無邪気な心を取り戻してみよう。そうすれば、心はいつも新鮮さに満ちあふれているはずだから。
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